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上田竜也には宝石を亀梨和也にはシルクを

上田竜也が洋ならば亀梨和也は和だ
上田竜也が可憐ならば亀梨和也は優美だ
上田竜也が変革ならば亀梨和也は安定だ
上田竜也が桔梗ならば亀梨和也は薔薇だ
上田竜也が感覚ならば亀梨和也は計算だ
上田竜也が甘えたならば亀梨和也は孤独だ


上田竜也が宝石ならば亀梨和也はシルクだ


相容れない2人が、KAT-TUNとなって早14年長。馴れ合うことを好まずただ己のこだわりをぶつけ合う。そんな上田竜也亀梨和也の関係性が好きだ。ボクシングと野球、『竜也』と『和也』そこからタッチと呼ばれるのもまた運命か。

1582とMARIE ANTOWANET

亀梨和也のソロ曲『1582』は、織田信長の妃・濃姫の目線で書かれた名曲。一方MARIE ANTOWANETはフランス国王ルイ16世の王妃・マリーアントワネットをモチーフにして作られた上田竜也のソロ曲。どちらも両者のソロの最高傑作とまで言われる良曲であり、パフォーマンスである。

日本の天下人の妃とフランスの天下人の妃。和と洋。こだわりが強く自己プロデュース能力の高い2人がこの曲を作るということはやはり思考が似ているのか。


いや、似ているようで似ていないのだと思う。


こだわりの持ちようや熱さは似ているのかもしれない。しかし、ベクトルが違う。生き様も生き方も違う。だから2人が和と洋対局であり、似ている曲を作ったこと。それをファンが最高傑作ということが面白いのだ。

KAT-TUNとしてのあり方

こだわりのベクトルの違いは、KAT-TUNの活動の時に明確になる。


KAT-TUNのパブリックイメージ=亀梨和也のイメージという図式が出来上がったのはいつ頃からだろうか。それは、亀梨和也KAT-TUNのエースでセンターであり続けた努力の賜物だった。亀梨が野球キャスターをやり始めてから、KAT-TUNのイメージは格段に上がったと思う。今までのただチャラチャラした不良のイメージではなく、実は真面目な好青年なんだねという印象を持たれることが多くなった。多分亀梨はその全てを悟っている。そして、KAT-TUNに対して最良の選択を模索し、自信がそのイメージに近づくことでKAT-TUNに還元している。これは、亀梨和也が『亀梨和也』を演じるための緻密な計算から成り立っている。計算式を作り出すためには、私たちの想像もつかない努力が必要だったのだろう。

逆にデビュー当時からの不良のイメージを守り続けているのは上田竜也だ。好青年だけではKAT-TUNの個性がなくなってしまう。それは、周知の事実だ。だからこそ、彼はバランスを取るために今のキャラを演じているのだと思う。過去を振り返ってみれば、KAT-TUNが一般人に見られた時のバランスを保っていたのは上田竜也だったのではないかと思う。今の上田竜也が過去のKAT-TUNに入るとバランスが悪い。逆に過去の上田竜也が今のKAT-TUNに入ってもダメだろう。
彼の中のKAT-TUN像が『気持ち悪くなる』。そんな感覚的なものなのか、はたまたかれも計算型なのかはわからないが、亀梨和也の突き進むKAT-TUN像と今までのKAT-TUN像の微妙なズレ。そのズレのバランスを保っているのが上田竜也なのではないだろうか。


この2人が馴れ合うとKAT-TUNは一直線になってしまう。突き進む奴もバランスをとる奴もいなくなればKAT-TUNは成長を止めてしまう。相容れない上田竜也亀梨和也がいてこそKAT-TUNの儚さや脆さ、美しさが際立つのだろう。

上田竜也に宝石を亀梨和也にシルクを